作曲家検索
作曲家一覧
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小川幸子
日本
文化庁海外公演などで演奏、ドイツ・フランス・イタリア・ オーストリア・ハン ガリー・ルーマニア・中国・韓国・ オーストラリアなど数多くの国での演奏経験をもつ。ルーマニアの国際音楽祭では最高賞を獲得。
陌間委子
1973年11月30日
日本
Motoko Hazama 1973年11月30日生まれ 4歳より、ピアノを始める。 心はバロック時代に飛んでいるバロック大好き人間。 ジュリアード音楽院プレカレッジ・ピアノ科出身
ヤーッコ・クーシスト
1974年1月17日 - 2022年2月23日
フィンランド
フィンランドのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。ヘルシンキのシベリウス・アカデミーでヴァイオリンを専攻し、インディアナ大学ではミリアム・フリードに師事しました。 ヴァイオリニストとしての初期のキャリアを経て、クーシストは作曲と指揮にますます関心を向けるようになりました。彼はいくつかのオペラ、映画音楽、舞台音楽を含む合計約 40 の作品を作曲しました。
デートリッヒ・ブクステフーデ
1707年5月9日
デンマーク
17世紀の北ドイツおよびバルト海沿岸地域、プロイセンを代表する作曲家・オルガニストである。声楽作品においては、バロック期ドイツの教会カンタータの形成に貢献する一方、オルガン音楽においては、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに端を発する北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠であり、その即興的・主情的な作風はスティルス・ファンタスティクス(ドイツ語版、英語版)(幻想様式)の典型とされている。
アウレリオ・ボネッリ
イタリア
イタリアの作曲家、オルガン奏者、画家。画家アゴスティーノ・カラッチの弟子であったこと以外はほとんど何も知られていない。1601年にアドリアーノ・バンキエーリがイモラに移住した後、ボネッリはボスコのサン・ミケーレでオルガニストとしての職についた。 1601年にアドリアーノ・バンキエーリがイモラに移住した後、ボネッリはボスコのサン・ミケーレでオルガニストとしての職についた。
小林健太郎
1981年3月28日
日本
高校時代に見た映画の音楽に感銘を受けホルン奏者を志し、2000年、国立音楽大学に入学。ホルンを故一色隆雄、大野良雄、井手詩朗の各氏に師事する。 ホルンを専攻する傍ら、映画音楽とその作曲に関して興味を深め、武蔵野美術大学の映像専攻の学生からの依頼により音楽を提供する活動を開始。同時に映像音楽に関わる知識や技術・作曲を丸山和範氏に師事する。 またこの頃から大編成を中心としたホルンアンサンブルの編曲も手掛けるようになる。2004年同大学を卒業。卒業後は演奏活動と共にホルン専攻だった事を最大の武器にホルンに特化した作・編曲家としても活動するようになり、アレキサンダーホルンアンサンブルジャパン、東京ホルンクヮルテット、ジャパンホルンカルテット/クィンテット、ホルンアンサンブル・ヴィーナス、つの笛集団など、各プロアンサンブルから作・編曲を任されている。
フリオ・デ・カロ
1899年12月11日 - 1980年5月11日
アルゼンチン
フリオ・デ・カロ楽団代表でタンゴの作曲家でありバイオリニストである。 クラシック音楽院の教授の家で生まれ、バイオリンを習得する。1916年に、エドゥアルド・アローラス楽団に入団し、デビューを果たす。その後、オスバルド・フレセド楽団を経て、ファン・カルロス・コビアン楽団に入団する。この楽団のバンドネオン奏者は、有名なペドロ・マフィアである。 1924年に、代表兼ピアニストのファン・カルロス・ゴビアンがニューヨークに移住してしまったファン・カルロス・ゴビアン楽団を引き継ぎメンバーが入れ替わり、フリオ・デ・カロ六重奏団となる。この楽団の貢献は、タンゴで「編曲」を重視し、大胆な編曲によりその楽団の個性を発揮させるという、タンゴ音楽の特性を確立させたこととされている。ペドロ・マフィアは1926年に退団するが、ペドロ・ラウレンスという有名なバンドネオン奏者を揃え、フリオ・デ・カロ楽団は、一斉を風靡する。
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