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Duo NéMeu feat. Duo Miho
オーケストラ・チェルカトーリ 第6回演奏会
2025/12/12
北海道出身の五錦(ごしき)竜二さんは、今年で80歳を迎える津軽三味線奏者。幼少期から民謡に魅入られ、17歳から津軽三味線を手にした。厳しい修行時代を経て、現在では津軽三味線五錦流家元として舞台に立ち、後進の育成に務めている。60年を越える三味線人生を支えてきたのは、三味線の音色への想いと、音への追求心だ。
五錦さんの津軽三味線との初めての記憶は、少年時代を過ごした北海道北斗市に遡る。しんとした雪景色の中、かまくらの中で耳を傾けたラジオからは、津軽民謡や津軽三味線の音色が聴こえてきた。 「三橋美智也先生の歌謡曲を熱心に聴いていました。民謡出身の方で、津軽三味線も得意な方。『哀愁列車』『達者でナ』など、たくさんのヒット曲がありました」 その伸びやかな歌声につられ、五錦さんもかまくらの中で民謡を口ずさむ。民謡や津軽三味線の音色への憧れを胸に抱きながら少年は成長し、上京した。東京の地で、津軽三味線と再会した五錦さんは、その想いを再燃させる。 「勤め先の会社社長の奥様が三味線を弾く方でした。私の三味線好きを知った専務から勧められ、私も三味線を習い始めることにしました」 三味線を触る前に唄を習い始めた頃、父の死をきっかけに北海道へ帰ることに。地元の民謡酒場で太鼓を始めた。なおも強くなる三味線への思いを知った知人らが、東京の津軽三味線の名手・福士政勝氏に師事することを提案した。
「糸の合わせ方もバチの持ち方も教えてもらえませんでした。ただ、お師匠さんが弾く後に『ついてきなさい』と言われるばかり。音も合わせられないから、ついていくもないですよ。何も弾けませんでした」 当時、五錦さんは17歳。故郷の冬の寒さよりも厳しい、芸の道の険しさに触れた。 「稽古といっても師匠の前に座って叱られるだけ。5分や10分で帰らされます。だからほとんど覚えられない。それでも津軽三味線の名曲、『六弾』だけは教えてもらいました」 “芸は盗むもの”というのが師匠・福士政勝氏の教え。しかし、糸の合わせ方、バチの持ち方もまともに教わらない中では、盗みようがない。ただただ苦しく、自分が情けなく感じる時間だったという。遊びたい若い年頃に、五錦さんは布団をかぶりながらがむしゃらに練習をし続けた。 「そんなことができたのは、本当に三味線の音が好きだったからでしょうね。人から馬鹿にされたり、『何も弾けないじゃないか』と陰口もいっぱい言われましたよ。それでも私は三味線の音を手探りで探しているときが幸せだったんですね。生きがいだったんです。」
しかし、これではさすがに何も弾けるようにならないと、名古屋の中村民謡団に入団した。しかし、そこでも何も教えてはもらえない。二代目・白川軍八郎ご夫妻、中村優利ご夫妻、初代・藤田淳一氏がいた中で、彼らの音を聴き、そこでも手探りで音を探す日々だった。 「みんな私よりも上手な人ばかり。私は何も弾けないけど、そこにいさせてもらっている人間。だから神経を使いながら生活していました。そうしたら朝起き上がれないぐらい胃に穴があいて、医者から『このままの生活を続けたら大変なことになりますよ』と言われ、名古屋を離れました」 今の時代では考えられないことだが、五錦さんは頷きながらこう続けた。 「でも、ものは考えようですね。人間、ご飯をいっぱい食べたら眠くなるでしょ。あまり教え込むと自分で考えないようになるみたいですね。」 常に心を揺さぶる音を求めてきた。それにはどんな音がふさわしいのか、五錦さんは自身の心や自然に耳を傾けながら、今でも自問自答している。 「ふさわしいのは悲しい音なのか、苦しい音なのか、うれしい音なのか。風に揺られる草木にも想いがあるのではないか。それはどんな言葉や音がふさわしいのか。そんなことばかり考えながら、何度も弾き直しています。」 帰京後、再会した福士氏の前で、『津軽じょんから節』を弾くと、「ずいぶんと勉強して頑張ったんだなぁ! このまま練習して、一生懸命続けていくなら俺の二代目をやるぞ」と、予想外の言葉をかけられる。しかし、福士氏はまもなく他界してしまった。
その後、現在の五錦竜二に名前を改め、津軽三味線奏者として初代・今重造氏、原田栄次郎氏、浅利みき氏などが出演している北海道巡業に出演。 「巡業は移動の連続。当時は舗装されていないデコボコ道。私は一番後ろに座って、頭の上に落ちてくる荷物を積み直すのが仕事でした。だから深夜の移動中はほとんど寝ていません。それでも三味線の音が好きだったから、そんなことも喜びでした」 五錦さんの口調からは当時の苦労がしのばれる。しかし、それらが五錦さんの糧になっていると感じさせる力強さも帯びている。 「確かに自分が一番何もできないという時間は長かったです。でもそういう心をいつまでも持ち続けることが大切ですよ。少し売れたからといって天狗になってしまう人がほとんど。だから“初心の心”というのが自分の宝物なんです」 弟子をとり、“師匠”と呼ばれる立場になっても五錦さんの気持ちは変わらない。自分の演奏は未完成、より高みにある理想を追い求め続けている。 「いくら檜舞台に立とうとも、いつも私は地べたにいると思っています。地べたにいるとね、正面も裏面も見えるの。そういう音を私は出したいんですよね」
80歳を迎えた今、音への探求はさらに深まるばかりだ。 「指もバチも昔のようには動かなくなります。しかし、速弾きの音には出せない音が必ずあるはずです。私は常にそれを求めています。」 「自分の心の想いの音、一生かかってもその音には届かないかもしれない。しかし、自分はあきらめることはない。どんな険しい道でも自分の心の音を探し求める」
中の人は、アマチュアオーケストラで打楽器をやっています