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2024年06月10日 22:22

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栗原麻樹ピアノリサイタル

栗原麻樹ピアノリサイタル

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2024年05月27日() 19:00開催

「太鼓の達人」というゲームを御存じだろうか。画面に流れる太鼓のマーク(枠?)を、曲に合わせて指定されたタイミングで叩き、得点を競うものだ。ウエブを検索して調べると、「演奏中に表示される『良』『可』『不可』という表示は、音符がどれだけワクからずれないように正確にたたけているかの判定です。わずかでもズレていると『可』、大きくズレると『不可』になります。」とある。
楽譜のある楽曲も、譜読みをするということは、この「太鼓の達人」で狙うことと、おおざっぱには一致する部分もある。すなわち、指定されたタイミングで、音を奏でることによって、楽譜を音にすることができる。それも、ある程度の段階までは、作曲家が、「そのように音を構成しよう」と配置されたことを汲み取って、音にすることができる。
そして「太鼓の達人」で「良」を狙うという、精度を上げる作業は、ピアノ演奏でも、する場合もある。そして、架空の「優良」を狙ったり、さらに架空の想像上の「超優良」を狙ったりすることも、ピアノクラスタの一員である人は、なんとなく、それがどんなことなのか想像できるのではないだろうか。
「太鼓の達人」で「良」を狙うように、ピアノ演奏の方向をもっていくことで、映える曲もある。映える曲もあるし、映える演奏家もいる。最近亡くなったポリーニのショパンエチュードの録音は、「優良」の音でちりばめられたような見事さ、とも言えよう。
しかし、音楽の演奏も芸術表現である以上、写実的な正確さばかりが、表現として説得力を持つわけではない。同じピアニストの違う楽曲を例に出してみたい。ポリーニはシェーンベルクのピアノ曲も録音しているが、クロード・エルフェの録音を聞いたあとポリーニを聞くと、ピアノ演奏は「太鼓の達人」で「良」や「優良」ばっかりを狙っても、それは違うのではないか、という、認識の再設定を迫られているような気持ちになる。
さて、栗原麻樹。彼女はすべての音を「良」以上にそろえる技術を当然もっていつつ、それが表現として必要なければ、無駄に「良」だけにそろえることなどは、絶対しない。音楽家としての、天性の、いや、表現者として常にこれ以上はないか、ということを追求し続ける姿勢がある。その姿勢が、職人的なバランス感覚と、バランス感覚を持つがゆえに、表現として踏み込み、容赦がない。安全マージンを残さない。いや、残しているかもしれないけど聴衆にはまったくわからないレヴェルだ。たねや仕掛けがわかったてしまったら興行として成り立たない。職人的な魔術師である。いや、本当に魔法使いかもしれない。彼女はリサイタル当日までSNSで曲が仕上がっていく様子を臆面もなく公開したり、またピアニストとしてのいろいろなそのときそのときの感情もかなり明らかにしているのだが、だからといってあのような魔法のようなステージのたねも仕掛けもまったくわからないのは、さながらクローズアップマジックを彷彿させる。
オーケストラの指揮者がシェフになぞられるように、彼女も一流の音楽の料理人で、無駄に「良」だけを並べたような演奏が、料理学校でのレシピ通りの優等生の料理ならば、プロである彼女には、意図をもって「良」や「可(しかも「不可」ぎりぎりの!)」が並べられているかもしれないことが、演奏を聴いて余韻に浸ってそのあとしばらくしてから、ふとそんなことも思わされたりもする。肉を良く焼くだけが、肉の焼き方ではない。ミディアムというのもある。肉本来のおいしさをどこまでも引き出そうとするなら、ぎりぎりのミディアムだってありうる。食した瞬間はあまりにおいしくて、それがミディアムなのかどうかは、忘れるほどなのだが。彼女の奏でる音楽は、そういうシェフの一流の料理である。
今回のプログラムの後半が、そうしたことを端的に語っている。リムスキーコルサコフの交響組曲「シェエラザード」は、オーケストラの主要なレパートリーとして著名だ。一説によると、これほど、世界中のオーケストラが取り上げている曲も、なかなか無いという。
栗原麻樹はこの交響組曲をピアノ独奏で、リサイタルで取り上げた。なんという変態プログラムか、と思う。国内の著名楽譜出版からも楽譜がでているので、楽譜をもっている人はそれなりにいるとは思うが、それを東京文化会館でのリサイタルで取り上げるか、っていったら、それは話は違う。町内会運動会ではなく、オリンピックでメダルを争う、決勝の舞台みたいな話だからだ。
国内ではこれをソロで取り上げるのは、彼女だけだという。自分も他に聴いたことがない。理由はいくつかあるだろう。まずピアノ独奏曲として作曲されているわけでもなく、ピアノの主要なレパートリーを数多く作曲している作曲家のオーケストラ作品の、ピアノ独奏版というわけでもない。どちらかというと、管弦楽法を著したことでも有名な作曲家の、オーケストラの持つ性能を最大限に発揮するような曲を、ピアノ独奏で表現するというのは、それだけでもう、かなりアクロバティックである。魚肉練り製品(かまぼこなど)の素材で、特上寿司と見紛う味や食感の握りに、挑戦します、って、いったい誰が挑戦するのだろうか。
しかし、リサイタルを聞いてびっくり。まるでピアノ独奏曲の新たな地平を示すかのように、見事なのである。知った素材(「シェエラザード」)、知っている調理方法(「ピアノ演奏」)の見たことない組み合わせは、当初冗談みたいなコース料理に鼻白みそうになるが、それは偏見。新しい創作料理の、堂々とした星のつくレパートリーとして本当に堪能した。舌鼓ならぬ、心鼓を、大いに打ったどん。
弦楽器のトレモロなど、ピアノで表現するのは、本当に難しい。管楽器のコンチェルトなど、オーケストラ伴奏によるものが、ピアノ譜でも出ていたりするが、弦楽器のトレモロで求められている音色や、メカニズムは、ピアノのトレモロには、まったくそのまま移行しないのにもかかわらず、もと曲が弦楽器のトレモロだから、とりあえずピアノ譜もトレモロにしとこうか、的な譜面は世の中にごまんとある気がする。
例えば自分が人前で演奏したことのある曲では、ポール・クレストンのマリンバ小協奏曲の第3楽章のピアノ伴奏の冒頭の右手はトレモロの指定があるが、トレモロで演奏した例を自分はしらない。というか、トレモロでは弾けないし、弾かない方がいい。その曲の三楽章のピアノ伴奏冒頭は、トレモロで示された和音を、オンビートの部分だけスタッカート気味に演奏することが、ほとんどではないか。
フィリップスパークのユーフォニアムコンチェルトで、原曲でトランペットがソロのユーフォニアムに呼応するフレーズを楽譜通りの音の高さでピアノで弾くと、原曲で奏でられている和声感を損なう。ピアノでは聞こえてくる倍音の成分が、管楽器の合奏とは違うからだ。ピアノでそのトランペットのフレーズを演奏するときは、1オクターブ上で演奏したほうがいい。
管楽器の協奏曲のピアノ伴奏譜ですら、そうした演奏上の工夫、指使い、オーケストラとは違うテンポ感の作り方が、結構な手間として要求されるのに、40分を超える交響組曲まるまる全部、しかも別に管弦打楽器のソロをサポートするわけでもなく、全部ピアノというのは、逃げどころがない。しかも「シェエラザード」は、聴いたことのあるオーケストラの曲、トップ100には絶対にはいる有名曲である。
栗原麻樹がシェエラザードのピアノ独奏版を料理できるのは、彼女が類まれなバランス感覚の持ち主だからである。バランス感覚をもって、バランスをとる、のではなく、バランス感覚をもってして、表現として攻めていく。彼女以外のピアニストがシェエラザードのピアノ独奏版をなかなか取り上げないのは、苦労のわりに、割りがあわないからであろう。「良」を求める感覚(それはある部分は必ず必要)と、全体の表現のおおきなスケール感のなかで、「可」をも、意図をもってデザインしていく感覚を、少しでも間違えば、メカニック的に崩壊した演奏になるか、音楽的に、ただ、シェエラザードっぽいピアノ曲の、音を並べられているものを聴かせられるか、どちらかになりそうである。だから、けっこうな力量を持つピアニストも、あえて取り上げたりはしないプログラムなのではないか。
彼女のシェエラザードを聴いて思ったことをさらに。自動車のレースのマンガをみていて「タイヤの性能を、ゴールするまえに、使い切ってしまうのは、よくない(※極限のスピード域でサーキットをせめているので、タイヤの性能はどんどん劣化していく、逆にそのくらい攻めないと勝負にならない勝負をしている)。しかし、ゴールしたあと、タイヤの性能が残っているのは、もっとよくない」という言葉にあって、しびれたことがある。彼女のシェエラザードは、その楽曲を演奏する上での、集中力、表現の踏み込み、歌いっぷり、すべて、そのときできる全部を使い切った、本当に奇跡の名演だった。だから、そのあとのアンコールは、それも見事だったけど、演者、聴衆、が一体となって、音楽に祈りをささげるような、素敵な余韻の空間ができあがったような、幸せな時空だった。
そう、彼女は類稀なバランス感覚の持ちぬし(しかも表現として、これでもか、と攻めていくため。その、「攻め」というのも、誤解を避けるため補足するけど、極端な方向に攻めるといった単純なことでもない、モデラートも、考え抜かれて、脱力して、これでもかと磨き抜かれたものが提示され、圧倒される)であると同時に、音楽を表現するものとして、これ以上ないほど謙虚であることにも、ふと気づかされる。圧倒的なテクニックも、それを誇示するためではなく、音楽表現のために捧げられている。類稀なバランス感覚と謙虚さの両方がつきぬけているからこそ、シェエラザードのピアノ独奏版全曲が、リサイタルの本プロとして成立する。
彼女のSNSには「クラシックはつまらないと思う人は私の演奏を聴いた事がないから」とあるが、スキンヘッドが「いやー、髪の毛ふさふさですから」といっているように、最近は思う。

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2023年05月17日 09:09

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栗原麻樹ピアノリサイタル

栗原麻樹ピアノリサイタル

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2023年05月16日() 19:00開催

ツイッターで麻樹さんを知り、投稿された演奏動画に惹かれ
、CDを購入し、とうとうこの日、コンサートで生の演奏に触れた。SNSにその素晴らしいコンサートの感想が溢れていて、ほんとうに全くその通りである。ここではそれに付随する自分なりに思ったことを書いてみたい。麻樹さんはツイッターでは本当によくファンの方々と交流されている。ここ、順番を間違うとよくないところで、ファンの方々とよく交流されているピアニスト、ではなく、あれ程の音楽を奏でるひとが、さらにファンの方をSNSを通して大切にされている。もっと具体的には、誰が麻樹さんにどんなコメントをしたか、について、演奏する楽譜を暗譜するのと同じくらい大事に覚えている印象がある。するとどんなことが起こるかというと、客席の雰囲気が、ほぼ全部、麻樹さんの演奏を聞きたくて聞きに来ている、その純度が凄く高い、客席の雰囲気になる。どういうことか。「有名だから」とか「クラシックを聴くことがステータスだから」とか「演奏そのものよりも、休憩時間での、他のステータスのある方々との挨拶や交流や人脈の確認や、人脈の自慢や、新たな人脈の布石のほうが大事」みたいな人が、いなくなる。いや、少しはいるのかもしれないけど、純粋に聞きたいという方に飲まれてしまう。グレン・グールドがもし生きていて、麻樹さんの活動と演奏を知ったら、コンサート会場での演奏に復帰するのではないだろうか。 それから。麻樹さんの師事したピアニストに故・中村紘子氏の名前がある。1970年生まれの自分がピアノを志す時に、日本にいて絶対的に無視できない存在感のある人だった。自分は氏の演奏はあまり好きではなかった。しかしNHKのレッスン番組は食い入るように見ていたし、初めて購入した「展覧会の絵」のレコードも氏の演奏によるもので愛聴していた。麻樹さんもCDに「展覧会の絵」を収めていて、そこは出藍の誉れ、麻樹さんの演奏の方がずっと音色も多彩でフレーズも柔軟で熟成している。中村紘子氏はピアニストとして活動することの、覚悟や可能性と限界について非常に自覚的で、それを自らの行動によって示して、日本のピアノ界が世界に通じるためにはどうしたらいいかを死ぬまで実践しつづけたひとであった。それは地域に根ざした町工場から出発したとしたら、世界的に通用する技術を磨き、国際的な企業になりなさい、といっていたのかなあ、とも。

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