J.S.バッハ《マタイ受難曲》BWV 244
2025年9月28日、ミューザ川崎
指揮:ジョナサン・ノット
東京交響楽団・東響コーラス・東京少年少女合唱隊
今回のノットによる《マタイ受難曲》は、現代的なピリオド・アプローチを常識とする我々の耳に、まるで時代を逆行するかのような遅いテンポで幕を開けた。その響きは、リヒターやクレンペラーといった20世紀の大指揮者たちが築き上げた巨大な建築物を思い起こさせる。しかし興味深いのは、単なる懐古趣味に終わらず、全曲を通じてきわめて緻密に設計されたテンポ構造が感じられた点である。
特に印象的だったのは、磔刑の場面を挟んでテンポの構図が逆転する点だ。前半は緩やかに始まり、物語が受難に近づくにつれて次第に推進力を増し、クライマックスである磔刑の場面に至る。その後は再び歩みを緩め、静かに沈潜していく。まるで音楽全体が一つの十字架のシンメトリーを描くような構造を意図しているように聞こえた。ノットはここで、受難曲を「物語」ではなく「象徴」として聴かせる視座を与えたのである。
さらに驚かされたのは、新版の楽譜を用いながらも、旧版の伝統的な解釈──特にコラールでのフェルマータの引き延ばし──を意識的に復活させていた点である。今やほとんど失われた慣習を、あえてこの時代に提示することで、作品に荘重さと祈りの重みを刻み込んでいた。これは単なる歴史的再現ではなく、あくまでノットの精神的設計の一部として機能していた。
ここで浮かび上がるのは、《マタイ受難曲》という作品に凝縮された多層的な「想い」である。イエス・キリスト自身の想いはもちろん、ペテロやマリアをはじめとする弟子や母の想い、さらには彼らを取り巻く「キリスト教共同体」の祈り。加えて、ドイツ語テキストを整えたルターとその時代の信仰共同体の想い。そして何より、この作品に己の信仰と芸術を込めたバッハの想いである。今回ノットはそこにさらに一層を重ねたのではないか──すなわち、《マタイ受難曲》という作品の「演奏史」そのものに刻まれた想いを。大時代的に見えるテンポ構造や旧版解釈の引用は、単なる過去の模倣ではなく、この大曲の受容史をも音に織り込もうとする試みとして理解できるのではなかろうか。
ソリスト陣は、ギューラのエヴァンゲリストが持つ透明な語りと緊張感、ナジのイエスが示す深い慈愛と威厳が見事に対比をなしていた。リヒターのメゾは痛切な情感を、コンラディのソプラノは清冽な祈りを届ける。国内勢の櫻田、萩原、加藤も国際的ソリストに伍して説得力を発揮した。合唱は三澤洋史の統率のもと、巨大な音響建築と繊細な祈りの双方を見事に支えた。
東京交響楽団は、ノットの設計図を的確に理解し、重厚さと緻密さを両立した響きを作り上げた。ピリオド的軽さではなく、近代オーケストラのスケールを生かした音像は、今日ではかえって新鮮に響く。とりわけ後半の沈潜するテンポの中で、弦と木管が織りなす和声の陰影が、深い精神性を照射していた。
総じて、この演奏は「時代錯誤」ではなく、バッハの受難曲が本来持つ象徴的・神秘的構造を、現代において新たに可視化した試みであった。ノットは単なるバッハ指揮者の枠を超え、宗教的象徴を建築的に再構築する「構想者」としての資質を鮮やかに示したのである。
これは単なる《マタイ受難曲》の演奏ではなく、バッハの音楽を「十字架そのもの」として体現した記念碑的実演であった。
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